人國の歴史

これは架空鉄道です。たとえ実在する団体名がでてきたとしても、関係ありません。

 弥生時代の渡来人とは別に、4世紀末頃から7世紀中頃にかけても日本には渡来人が流入した。このとき、いくらかの船が遭難し、対馬海流に押し流されて北海道南端部に漂着した。この際、朝鮮半島から亜寒帯における雑穀農耕技術が伝わった他、漢字を理解する階層の人物によって文字という概念がもたらされたと見られる。こうした人物は本国における知識人だったはずで、本国に帰れず出世の道が絶たれたことになってしまうが、彼らから見たら野蛮人の世界でもその中で最高階級になれるなら、それはそれでまんざらでもなかったようである。また、一方の北海道側の視点では、確かに渡来人は侵入者でもあったが、「神は人間界に存在する何かの姿を借りて人間界に現れ、恵みや災厄をもたらす」という考え方に照らせば、渡来人は自分たちと異なる顔つきの不思議な人間という姿で人間界に現れ革新的な技術や概念をもたらした神という解釈もできた。ある日突然海岸に現れるという唐突さを考えても、ある種神秘的な解釈がなされるのは自然であった。こうして何度かの渡来人漂着を経て、8世紀頃までには渡来人を父、現地人を母とする家系が神格化され、北海道南端部に王国が成立したようである。

 この王国は人國(Ninkok)といった。この名称は北海道の呼称Aynu Mosir(人の土地、人の世界の意)を漢字で文字に起こしたものである。函館山には砦(cas)が置かれ、函館平野と津軽海峡沿岸部に影響力を持った。函館平野では、在来の原始的農耕に代わって大陸伝来の農法による雑穀農耕が行われ人口が増加し、人口が増加しても文字を用いた効率的統治機構が人國の安定に寄与した。さらに、人國は函館平野が手狭になると、大沼経由の陸路と亀田半島伝いの海路によって勢力を北に伸ばし、以降も文明と経済力の力によって人國勢力は北進を続けた。こうした勢力拡大の中で、他地域特有の産品を目的として人國主導の交易が活発化していった。

 人國の勢力が石狩平野に及ぶと、人國の勢力北上は一気に進行した。石狩川の水運によって国土の拡大と交易網の充実が加速し、旺盛な交通需要に応えるように石狩川下流部の江別が拠点性を持ち都市化した。江別は石狩川の近くまで微高地が張り出していて水害を受けにくく、また有力な支流である千歳川が石狩川の本流に合流する交通の要衝であった。江別が拠点化するとともに函館~江別間の移動が活発になり、長距離交通の主流であった水運の障害になっていた苫小牧~千歳間に運河が建設された。また、運河の建設と並行して函館~江別間の街道全体の整備も行われ、この街道と運河は運河の竣工年(1028)にちなんで戊辰街道、戊辰運河と命名された。

 人國の勢力が北進を続ける中、一方の南側では津軽海峡の対岸にある日本との交易も盛んにおこなわれていた。特に、日本側から日本海沿岸を北上する海運ルートは13世紀に顕著な発達を見せ、日本との交易において寒冷地域の産品の需要が急増した。こうした変化の中で、人國は毛皮、鷹羽等の北方産品を求めて勢力の北上を急ぎ、樺太への進出を図った。樺太進出初期には、原住民族吉烈迷(ギレミ)との間に目立った抗争はなかった。しかし、大陸側における元朝の勢力拡大に伴って吉烈迷がいち早く元朝支配下に入った結果、吉烈迷は朝貢品として確保するため樺太産品を人國に売り渋るようになり、徐々に紛争が生じるようになっていった。そして1264年、この状況を吉烈迷が元朝に訴えたことで、元朝が介入するに至った。元朝の介入によって事態は複雑化したが、結果として1308年、人國が毛皮の朝貢を条件に元朝と講和を申し込み紛争は一旦終結した。

 人國としては、強大な元朝によって北進が阻まれた格好になったが、これ以降人國は歴代の中国王朝と朝貢関係を結ぶことになり、結果として北回りの確固たる交易ルートを手にした。朝貢関係というのは皇帝と周辺諸国とが結ぶ主従関係であるが、これは使節の派遣に付随して貢物と返礼品の行き来がある他、商人が随行する朝貢交易に発展することで経済秩序の性質を帯びるものである。人國の中心である北海道から島伝いに外部に出る手段は、南の津軽海峡を渡って日本に向かう経路、北の樺太を経由して大陸に入る経路、東の千島列島に向かう経路の三つがあるが、東には有力国がないため人國の実質的な交易ルートは南北の二つに限られる。南では13世紀に日本との間の日本海海運が確立されたが、1308年の朝貢関係締結によって北側の交易ルートを確立したのである。対外的交易ルートを複数持つことは安全保障の観点で非常に重要であり、一見失敗に終わった人國の樺太進出は人國の安定化策を提示する結果となったのである。

 しかし、元朝の安定は長く続かなかった。北京が1368年に陥落し、元朝は北に逃れて北元となったが、モンゴリアとマンチュリアに残った元軍も明軍の激しい攻撃を受けた。そして、モンゴリアとマンチュリアの元軍を分断する明軍の作戦によって1387年にマンチュリアの元軍が崩壊した。この結果、アムール川下流の奴児干に展開していた元軍は孤立し、樺太に対する元朝の影響力は急激に低下した。人國との朝貢関係も終焉した。

 これは人國の交易ルートが南の日本に限られたことを意味し、この点では人國にとって危機であった。だが、樺太に影響力を持つ有力国がなくなったということは同時に人國による樺太進出の障害がなくなったということでもあった。かねてより日本との交易においては毛皮等の北方産品の需要が高く、かつて北回りルートで大陸と交易をしていた商人がこぞって樺太の掌握に乗り出した。

 このように商人が北海道外の他民族勢力圏へ急進的拡大を図る中、人國王朝は分裂の危機を迎えていた。これ以前から、人國王朝は遺言の不備に起因する両統迭立の状態に陥っていたが、勢力拡大を続ける商人がやがて王朝を脅かす力を持つのではないかと危惧し規制を加えようとする派閥と、あくまで商人に寛容な姿勢を取りその強大な力をうまく利用していこうとする派閥とに完全に分裂し、14世紀末までに南朝と北朝の二つの政権が生じる事態となった。商人に規制を加えようとする南朝はこれまで通り函館に残り、商人に寛容な北朝が商人の拠点江別に遷り、新たな王宮を構えた。このとき、江別は泥炭地で農業に向かないためあくまで商人の都市とし、扇状地扇端の湧水が利用できる札幌で食料生産を行うという都市計画が立てられた。

 内政が混乱する中、中国大陸では明朝が北への勢力拡大を続けており、15世紀初頭の永楽帝の時代にアムール川流域の朝貢体制が確立された。人國北朝が明朝と朝貢関係を締結し、再び北回りの交易ルートを確保した。また、明朝は人國北朝による樺太の統治を追認した。

 明朝との朝貢関係は元朝の時代より安定的であり、人國北朝は経済的に大いに潤った。一方、人國南朝は南の日本との交易を王朝の厳しい管理下に置いたが、日本で需要が高い樺太の毛皮等を入手することができず、日本側の商人から北方産品の調達を激しく要求されることとなった。さらに、それができないとわかると日本の商人は徐々に南朝から離れていく事態となった。政治的に対立する北朝と商業的に不満を持つ日本との間で板挟みになった南朝は衰退し、15世紀中頃までに人國王朝は北朝に統一された。こうして首都が函館から江別に遷った。

また、人國の南北朝対立は日本側にも多大な影響を与えた。それまで東北地方の覇権を握っていた安藤氏は津軽海峡の交易鈍化によって勢力を失い、1442年に南部氏によって拠点十三湊を制圧され、1443年、人國への敗走を余儀なくされた。人國に渡った安東氏(←安藤氏)は人國北朝の有力商家と血縁関係となり、当該商家はかつて安東氏がそうしたように、親王朝的側面と日本の血を引くという側面の二面性をもつ境界権力的存在として北から津軽海峡を掌握していった。

 人國の内政に多大な影響を及ぼした明朝は、人國王朝再統一直後の15世紀後半以降アムール川流域から後退していき、人國の朝貢関係も徐々に希薄になっていった。北方交易ルートの縮小を受けて、北方交易を生業としていた商人は業態の転換を迫られた。一旦は対日本交易に流入したが、単純に人國側の商人が増えただけでは供給過剰に陥り、価格が暴落して共倒れになるのは明白であった。そこで、商人が目を付けたのが東方の千島、カムチャツカに生息するラッコである。ラッコの皮等が従前の鷹羽や動物の毛皮に加わることによって商品の多角化が進み、過剰な価格競争が抑えられた。この対日本交易は松前を拠点として行われ、先述の安東氏の血を引く商家が担当者として松前に駐留した。

 また、北方交易を生業としていた商人はアムール川河口部にも進出し、キジ湖付近に拠点として砦を建設した。中国王朝の勢力が弱まったこの地域において、朝貢関係に依らない交易を当地域の民族相手に展開したのである。これは、交易相手国が日本のみに限定されるという外交的リスクを回避するのに大いに役立った。

 こうした試行錯誤の末、明朝と朝貢関係を結んでいた時代よりは劣るものの北方、南方双方において交易網を形成し、人國は再び経済的な安定を得た。17世紀頃になるとロシアの進出が激しくなり、アムールランドを巡って緊張状態に陥ったが、1689年に清朝とロシアがネルチンスク条約を締結して国境を画定させた。18世紀初頭には清朝が本格的にアムールランドに進出し、人國は清朝と朝貢関係を結んで北方交易を再び活発化させた。このとき、キジ湖付近にあった人國の拠点は宗主国である清朝の支配下に入り、ここを活用するかたちで朝貢交易が行われた。なお、アムールランドを封じられたロシアは18世紀、カムチャツカから南進を試みたが、この頃は清朝の勢力が最大の時期であり、ネルチンスク条約同様国境を画定する条約を締結せざるを得ず、新天地をアラスカに求めてさらに東進した。

 18世紀はまさに人國の春であった。先述の北方交易は安定した清朝の統治によって隆盛を極め、一方の南側も18世紀前半は荷所船、後半は北前船が多数往来して活発な交易が展開された。しかし、19世紀に入るとその繁栄に急速に陰りが見え始めた。18世紀末に乾隆帝の時代が終わってから清朝は衰退していき、アムールランドへの支配力が弱まっていった。さらに1840年にはアヘン戦争が勃発し、清朝の影響力は見る影もなくなった。

そこに代わりに台頭してきたのがロシア帝国である。人國王朝は依然として宗主国を清朝としながらも、商人は次第にロシアとの取引を活発化させ、ロシアは南の日本に次ぐ交易相手国となった。アムールランドに進出したロシアは樺太、北海道へと漸次南進を企てていたが、この頃人國はイギリス海軍の補給基地として婦在所や浦陽の港の提供を開始しており、ロシアは人國にうかつに手を出すことができなかった。人國へのイギリス海軍の出入りは、極東におけるロシアの台頭を阻止したいイギリスとロシアへの併合を拒みたい人國の互いの利益が一致した結果生まれたものであった。後に浦陽には外国人居留地とイギリス海軍基地が設置された。

人國まわりのパワーバランスが崩れるのは日露戦争である。ポーツマス条約において日本は朝鮮半島に加えて人國での優越権も獲得した。日露戦争時点直前、朝鮮では清朝と日本の内政干渉により国内情勢が混乱したとしてロシアにつく動きが発生し、人國では外交上ロシアと対立しつつも民間レベルでは商人がロシアとの取引を拡大しており、朝鮮、人國二国をロシアから引きはがしイギリスと蜜月の日本に併合する策が取られたとみられる。日露戦争以前には王朝の意向とは逆にロシアにすり寄る動きが北方商人を中心に見られたが、親露商人は日本併合以後弾圧され没落した。

人國を併合した日本は石狩炭田を発見して鉱山会社を設立し、小樽港や室蘭港まで運炭鉄道を建設して室蘭には製鉄所も開設した。また、鉄道はこれを皮切りに人國各地への幹線が建設された。総督府は首都江別に置かれ、水害を受けにくい高台の住人を立ち退かせて日本人街が設置された。さらに、総督府所在都市に供給する食料生産地として、泥炭地である江別ではなく札幌が農業開拓の拠点となった。これは併合以前の江別と札幌の役割分担を踏襲したものとなった。

 人國が日本の手を離れるのは太平洋戦争後である。194589日、ソビエト連邦がヤルタ協定に基づいて日ソ中立条約を破棄し日本に宣戦布告、樺太のポギビ付近に上陸して侵攻を開始した。翌810日、日本は連合国にポツダム宣言受諾を通告したが、92日の降伏文書調印までにカムチャツカ半島南部と北樺太を失う結果となった。樺太の停戦ラインは北緯50度線となり、これは朝鮮半島における38度線同様、810日から11日に国務・陸軍・海軍調整委員会で策定された案がトルーマン大統領の承認を経て816日にソ連の同意を受け、817日に決定されたものである。

 19459月以降50度線以南の人國はアメリカの占領下となり、日本併合以前の王国とは異なる共和国として人國が設立された。また、これと前後して、50度線以北ではソ連が介入して北神人民共和国が建国された。占領に際して引いた停戦ラインが実質国境と化して南北の分断が決定的となり、西側の思想と東側の思想がそれぞれお互いを屈服させるかたちで樺太を統一しようとする緊張状態となった。こうした中1950112日、アメリカ政府のアチソン国務長官が「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言し、北神指導者はこれを西側陣営の南樺太放棄だと曲解して南侵を企てた。

 しかし、樺太の地理的事情は朝鮮半島とは異なっていた。朝鮮半島では、毛沢東の許可を得ることを条件にスターリンが北朝鮮の南侵を容認したが、樺太は中国から遠く、ソ連、中国両国の協力を同時に得ることは難しかった。ソ連と中国は大国二国の戦力を集中できる朝鮮半島に注力する姿勢を取り、樺太の北神には支援を渋った。大国の支援を受けられなかった北神の指導者は開戦に踏み切ることができず、樺太はすんでのところで戦争を免れた。その結果、50度線は成り行きで恒久的な国境となるに至った。

 樺太が戦争を免れてから数年、朝鮮戦争直後の1955年にベトナム戦争が始まった。人國は太平洋戦争後の荒廃の中樺太戦争の危機から脱したばかりであったが、人國に経済発展をもたらしたのもまた戦争であった。人國は韓国同様ベトナム戦争への参戦によってドル資金を得、日本との国交正常化を契機に得た円借款と技術支援を基にして経済発展を遂げた。

 この頃に建設された火力発電所の燃料は石炭であり、1973年のオイルショックの際にはこれが功を奏した。オイルショックの直前には人國でもより先進的な石油燃料のプラントを建設しようという動きがあったが、1970年代は一転極端なまでの石炭偏重に陥った。石炭が重要視された背景には、ほぼ100%を輸入に頼る石油と異なり、石炭は北海道や樺太の炭田から自給できるという考えがあったとみられる。国内各地の炭鉱には、戦後の爆発的人口増加によって潤沢となった労働力が供給され、1970年代は石炭の大増産時代となった。こうした中で炭鉱における事故が社会問題化し、労働者の安全を確保する法整備が進んだ。また、発展を続ける経済活動のエネルギーの大部分を石炭で供給した結果、大気汚染が急激に進行し公害問題もクローズアップされた。ただ、このようないびつな石炭大増産体制は、オイルショックが落ち着く1970年代末には無用のものとなり、1980年代に石炭が天然ガスなどに取って代わられる中で公害は若干沈静化していった。

 一方、大増産体制が終わって打撃を受けるのは炭鉱とその労働者である。石炭の需要が低下したことに加え、1970年代の異常な掘削によって簡単に掘れる範囲の石炭の量が少なくなってしまい、コストの問題などにより炭鉱は大幅な規模縮小を迫られた。折しも1981年、1988年に江別で冬季オリンピックが開催されることが決定し、これに向けた会場の建設とインフラの整備が必要となった。こうした特需は炭鉱の職を失った労働者の再就職先となり、オリンピック特需に応える労働者が一気に都心に流入した。これは、これまでも人口が増え続けていた首都江別がいよいよ限界に達することを意味していた。

 そこで、なし崩し的に郊外に住宅都市ができていった。特徴的なのは、1980年代初頭から徐々に入居者が減っていった岩見沢や三笠などの炭鉱住宅である。炭鉱会社は限界を迎えた江別の住宅事情に目をつけ、不動産事業に転換することで生き残りを図った。政府、自治体としても既存の住宅を利用できれば一から建設しなくても当座の需要を満たすことができるため、これを後押しした。このような経緯で、江別に地下鉄が整備されるより前に江別太~三笠間で国鉄が頻発運転を開始した。車両は間に合わなかったので、とりあえず種々雑多な車両が繋がれた。また、炭鉱住宅で急場をしのいでいる間に地下鉄と団地の一体整備を目的とした首都圏都市開発公団が設立され、江別近郊に交通網と住宅が整備されていった。応急処置的に頻発運転されていた江別太~三笠間の国鉄は、都心方面への地下鉄と直通することになって本格的に電車が投入された。これが1号線の始まりであり、地下鉄は整備が進んで2024年時点12号線まで開業している。