関東鉄道のおはなし

これは架空鉄道です。たとえ実在する団体名がでてきたとしても、関係ありません。

半蔵門線開業前のダイヤ(20141120)

 2003年に半蔵門線が全通するまでは、関東鉄道はどの地下鉄にも乗り入れない孤立路線であった。それでいて都心側が住宅密集地ゆえに複々線は無く、関東鉄道は常総地域からの通勤客を一手に引き受けて逼迫していた。図の「2003年以前 朝」を見ると、「昼」に比べて、急行のスジが寝ていることがわかる。関東鉄道の朝ダイヤは、昼運転する準急と急行の間に更に準急を挟む形になるのだが、当時は半蔵門線が無いため急行は日暮里まで延々準急の後をついていくダイヤとなる。このため、朝のみ急行は関屋と町屋にも特別停車して、準急と同じペースで走っていたというわけである。更に酷いのが快速急行である。快速急行は当時松戸から日暮里まで止まらなかったのだが、青戸あたりから先程の急行と同じく準急のケツを舐めてしまっている。しかし小駅に停車するのは快速急行のプライドが許さないのか、ノロノロ運転してでも関屋や町屋を通過していた。まさに「ドアが開かないことがサービス」という世界である。

急行高砂通過に伴う普通列車の待避パターンの見直し(20141120)

 2003年、半蔵門線直通開始時の大幅なダイヤ改正では、朝の急行の特別停車が廃止されたり、その他の時間帯を含む全ての急行が高砂を通過するようになったり、とにかくスピードアップが重視された。その裏で、日中の普通列車の待避パターンがひそかに変更されていたことに気付いたのは、高砂駅利用者と鉄道ファンくらいであっただろう。実はこれは、急行が通過するようになる高砂駅の利便性を落とさないための秘策であった。

 2003年以前、急行が高砂に止まっていた頃は、日中日暮里への有効列車は30分あたり5本であった。今、2003年以前の待避パターンのまま高砂を急行が通過するようになったと仮定しよう。真ん中の図がそれにあたるが、これだと高砂を日暮里方面に出る普通列車は有効列車にならない。これでは、30分あたり2本走っている急行が通過するようになった分純粋に有効列車が減って、その数は3本になってしまう。しかし、普通列車が準急を高砂で待避する場合はどうだろう。これが下の図で、有効列車の数は30分あたり5本になり、急行が停車していた頃と同じ数を保つことができる。これをつぶさに見れば、青戸で急行に乗り換えられる方の組み合わせでは所要時間は準急と同じだが、特急が青戸を通過している間に青戸で日暮里行き普通に乗り換えるという方は、全行程を普通列車で通すため所要時間が長くなってしまっている。とはいえ、本数の上ではしっかり以前の待たずに乗れる利便性を維持しているのである。

つくば万博特需と幻の交直流通勤電車(20141124)

 関東鉄道は、柿岡にある地磁気観測所に影響を与えないために、直流電化区間は水海道までとなっており、その先茨城県内の電化路線は交流電化である。上野から筑波山や土浦まで直通する特急電車のみが交直両用であり、その他の電車は全て直流または交流のどちらか専用である。これは、関東鉄道の特急が電車化されてからずっと同じである。しかし、そんな関東鉄道でも、交直両用の通勤電車を造ろうという機運が高まった時期があった。つくば万博の頃である。

 つくば万博へのアクセスは、関東鉄道かJR常磐線といったところだが、より会場に近い関東鉄道が主力になることは容易に予想できた。しかし、東京から万博会場まで有料特急を使わないとなると、必ず水海道で乗り換えが発生する。座席指定の特急列車では輸送力が足りないのは目に見えており、水海道駅の激しい混雑を防ぐ目的からも、詰め込みの利く通勤型車両で直通便を運行したいところであった。

 だが、東京側の狭小なターミナルがそれを許さなかった。関鉄上野駅は2面4線、日暮里駅は地上ホームが2面3線。しかも、上野には30分サイクルのうち20分間特急が停車しており、こちらも事実上は3線しかないに等しかった。また、当時まだ青戸から半蔵門線は無く、半蔵門線に列車を流して両ターミナルの負担を軽減するという策も取れなかった。さらに、関東鉄道の待避駅の位置の都合上、日暮里や上野には普通、準急、急行が3分の間に一気に入線してきてしまい、一度に線路を埋めてしまっていた。このような状況下では、上り列車を来た順にどんどん下り列車として返していく運用が組まれており、水海道からの準急が折り返して江戸川線直通の急行になるなどは日常茶飯事であった。こういった運行形態を鑑み、関東鉄道では当時、一刻も早く車両の規格を統一しようという施策の真っ最中であった。そんな中で、直流電車に混じって交直流電車を走らせようなど、できるはずもなかった。

 そこで、万博開催期間中、水海道駅のホームの使い方を改めて、上野発水海道行き急行からつくば方面の電車に同じホームで乗り換えられるようにし、怒濤の混雑をなんとか耐えるという苦肉の策がとられた。4番線に入れた急行から5番線に入れた学園都市線電車に人は塊となって流れた。こうして関東鉄道はつくば万博を力技で乗り切ったのである。それゆえ今でも関東鉄道は交直流通勤電車を一両も保有せず、運転系統は完全に水海道で分かれている。しかし、それが現在、半蔵門線に乗り入れる編成を選ばない柔軟な車両繰りを可能にしている。


水海道駅配線図
水海道駅配線図

ひとときの栄華(20140918)

 戦後高度成長が始まると、京成が押上止まりだったために、押上で接続していた都電は京成からの乗り換え客で溢れかえっていた。そこで一部の乗客はキャパシティの小さい都電を諦め、青砥や高砂で降りて少し離れた関鉄まで歩き日暮里まで乗るルートを選んだ。もちろん関鉄も流山や野田からの乗客で大変混雑していたが、小さな都電の車両に押し込められることを思えば、速い分関鉄の方がマシであった。やがてこのルートが選択肢の一つとして定着すると、京成青砥駅と関鉄青戸駅、京成高砂駅と関鉄高砂駅の間には商店や露店が立ち並ぶようになった。

 しかし1960年、都営1号線(浅草線)が開業すると状況は一変した。京成電車に乗ったまま都心に直通できるようになり、青砥、高砂両駅から関鉄に徒歩連絡する乗客の数は格段に減った。露店の数もみるみる減っていった。京成青砥と関鉄青戸の間の道は以前の閑静な通りとなった。しかし一度繁栄を経験したからか、その落着きは一層寂しく感じられた。

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