歴史

これは架空鉄道です。たとえ実在する団体名がでてきたとしても、関係ありません。

千葉県北部、茨城県の思惑(20140619)

 明治末期、鬼怒川の水運に頼っていた水海道、下館の人々は、その不便さから東京まで鉄道だけで行けるルートを造ろうと考えた。利根川の対岸では、野田の醤油醸造業者もまた、河川交通に頼る製品輸送に限界を感じ、巨大マーケット東京へのルートを模索していた。そこでこの二者が協同して野田鬼怒川鉄道を設立し、東京市から松戸、流山、野田町、水海道を経て下館に至る鉄道の建設に乗り出した。さらに、日本鉄道土浦線(JR常磐線)のルートから外れ、松戸側に駅ができていくのを見ていた流山の人々の間でも鉄道建設の気運が高まり、野田鬼怒川鉄道に出資することになった。

 史実において常総鉄道が会社創立からわずか一年余りで開業したように、野田鬼怒川鉄道線の敷設は非常に高速に進んだ。東京市内のルートについては、初め浅草を起点にすることを目論んでいたものの、繁華街では用地取得に金と時間がかかることから、山手線日暮里駅をターミナルとする計画に改められた。流山から松戸を経て日暮里に向かうには、常磐線を一回も跨がないルートが最も簡単そうであるが、松戸から北千住北側まで完全に常磐線と並走する形になってしまい国が難色を示したため、常磐線を二回跨ぐことにはなるが、帝釈天を通り史実の京成のルートで日暮里に至るルートを採用した。開業当初は非電化だったが、後に水海道までを直流電化している。

都心乗り入れルートの検討
都心乗り入れルートの検討

宝珠花、関宿の思惑(20140312)

 利根川と江戸川の分岐地点にあたる関宿は、城下町としての側面とともに水運の町としての顔も持ち、栄華を誇っていた。明治に入り、水運の時代から鉄道の時代へと変わると、関宿や宝珠花といった江戸川の水運業を担っていた流山街道沿いの村も危機感を抱き始め、既に建設が始まっていた野田鬼怒川鉄道の野田町駅から木間ヶ瀬、東宝珠花、関宿を経て下総境に至る鉄道の建設を計画し、江戸川鉄道を設立した。この鉄道は、後に野田町から先常磐線柏駅に延伸することも目論んでいたが、後に立ち消えとなった。また、反対側は同じく水運業で栄えていた古河まで伸ばす予定であり、古河の資金も当てにしていたが、古河には既に東北本線が通っており、古河が新たな鉄道建設への出資に難色を示したことから、江戸川鉄道は利根川を渡れず、終点下総境駅は川の南側にある。

広大な路線網の形成(20140619)

 醤油輸送を巡る動きは凄まじく、1921年に船橋方面への路線計画が出され、1923年に運河船橋間が開業した。また、1926年に、今度は大宮方面への計画が出された。このうち野田町から清水公園までは江戸川鉄道と並行するため、野田鬼怒川鉄道は江戸川鉄道を合併して江鬼鉄道に社名を改めた上、清水公園から大宮までの路線を建設することにし、同時に江戸川鉄道線清水公園から中里付近までの区間をより直線的な新線に統一する工事も行った。大宮への路線は1930年に全通した。

 一方、利根川の向こうでは、水上交通の要衝として栄えた守谷が焦っていた。水海道から野田へ渡りそのまま東京に直結する鉄道ができたことで、これまで守谷に集積していた物も人も、船ではなくより速い鉄道を利用するようになってしまったのだ。そこで、守谷の住人達も資金を出し合い、水海道取手間に鉄道を建設した。それから暫くして、筑波山への観光需要を見込んだ新線が計画され、これは1927年に下妻筑波山間に開業した。終点筑波山駅は、筑波鉄道の筑波駅に隣接していた。

 時は下り戦時下、陸上交通事業調整法により、茨城県南部の交通事業者はこの江鬼鉄道を核に統合されることになった。竜崎鉄道、筑波鉄道、鹿島参宮鉄道などを吸収合併し路線網が広大になった江鬼鉄道は、関東鉄道に社名を変更した。この時、筑波鉄道の筑波駅は、旧江鬼鉄道の駅に合わせて筑波山駅に改称した。

運河から流山おおたかの森までは史実の野田線のルート、そこから北に進路を変え、手賀沼にそそぐ川沿いに走り、柏駅には北側からアプローチする。

筑波山観光開発と特急列車(20140206)

 高度経済成長期になると、関東鉄道は沿線の観光資源である筑波山を開発してPRし、行楽客を呼び込もうと考えた。筑波山は火山ではないものの温泉が存在するため、温泉旅館を建て、登山と合わせて宣伝した。柿岡の地磁気観測所に影響する事から、この時はまだ水海道以遠の直流電化は見合されており、水海道筑波山間は非電化だったため、登場した特急列車は気動車であった。

上野延伸と特急列車(20141020)

 高度経済成長期、東京へ向かう鉄道はどこも通勤客を満載し、パンク寸前であった。関東鉄道はターミナルが日暮里といまいち立地が悪く、勤め先のある都心へ向かうには乗り換えを必要としたが、終点日暮里で接続する山手線は既に満員であり、関東鉄道からの乗り換え客を受け入れるだけの余裕はなかった。また、関東鉄道は青戸や関鉄高砂で押上止まりの京成からの乗客を受け入れており、日暮里駅は国電に乗り換えられない人で溢れかえる事態となっていた。1960年に都営浅草線が京成本線(史実京成押上線)と乗り入れを開始し、青戸、高砂での流入が減った分混雑は緩和されたが、日暮里では依然として乗り換えのために何本も列車を見送らねばならない状況であった。そんな中、1962年、都市交通審議会答申第6号において、関東鉄道の上野延伸が答申され、直ちに建設された。

 関鉄上野駅は史実での京成上野駅の位置にあたる地下駅である。当時まだ筑波山行き特急列車は気動車であったため、上野地下駅には入線せず、従来通り日暮里発着のままとなった。

 1960年代後半から筑波研究学園都市が建設され始めると、新しい都市へのアクセスとしての鉄道が求められた。1970年から都市建設が軌道に乗り始めたことを受け、1970年代前半に水海道からつくば市を経て土浦に至る新線を建設した。この新線は私鉄では他に例のない交流電化であり、これに合わせて水海道筑波山間も交流電化された。

 筑波山まで電化されるのに合わせて、新しい特急用交直流電車が造られ、起点も日暮里から関鉄上野に改められた。また、特急列車は、上野筑波山間だけではなく、上野土浦間にもライナーの意味で運転されることになった。1994年に真岡鉄道でSLの運行が開始されると、鬼怒川線で最後まで非電化だった下妻下館間を交流電化したうえで、SLに接続する上野下館間の特急も運行が開始された。

悲願の地下鉄乗り入れ(20140613)

 東京北東部は地下鉄路線が少なく、関東鉄道は1980年代になっても地下鉄乗り入れができずにいた。1985年、運輸政策審議会は答申第7号において、既に計画されていた地下鉄半蔵門線を青戸まで延伸し、関東鉄道と相互直通運転するよう答申した。すぐに完成することが望まれたが、バブル崩壊などで建設が遅れに遅れ、結局完成したのは2003年であった。

関東鉄道:歴史/路線/ダイヤ/車両/その他