歴史

これは架空鉄道です。たとえ実在する団体名がでてきたとしても、関係ありません。

■京津電気軌道開業

 明治時代、京都と大津は、至近距離にありながら二重の山に阻まれて交通不便であり、東海道本線は今の奈良線を経由して稲荷から山科に抜けていたため、鉄道による往来は一層面倒なものとなっていた。この二都市間を電車で結ぼうと、1906年、京津電気軌道が設立され、京都市下京区三条通大橋町117番地先―大津市御蔵町(浜大津)間の軌道敷設を鉄道院に請願した。また、京都市内で路面電車事業を営んでいた京都電気鉄道も同時期に京都大津間の電車運行を計画し、同区間の軌道敷設を鉄道院に請願した。他にも一社が同区間に請願を出したため京都大津間は三社の競願となり、鉄道院は三社に対して妥協による合流を要請した。結果、京津電気軌道と京都電気鉄道が妥協し、京都電気鉄道が京津電気軌道に合流するかたちで京都大津間の軌道敷設計画は一本化された。京津電気軌道は1912年、古川町(東山三条)―札ノ辻(京町一丁目交差点付近)間に軌間1435mmで開業し、京都大津間往来の利便性を高めるのみならず、琵琶湖の汽船との連絡割引切符を販売したり京阪電気鉄道および京都電気鉄道との連絡運賃を実施したりすることにより琵琶湖沿岸や大阪との往来をも促進した。京津電気軌道は起終点がいずれも古川町と札ノ辻にあったが、1923年に京都側は三条大橋まで、1925年に大津側は浜大津まで延伸し、全通した。

【参考文献】

Wikipedia 京津電気軌道

Wikipedia 札ノ辻駅

浜大津【旧大津市内線7】 http://contrapunctus.blog103.fc2.com/blog-entry-537.html?sp

■京都電燈の江若連絡

 関西および北陸地方で電力事業を営んでいた京都電燈は、安定した電力供給先を確保するため、1914年、新福井―市荒川(現越前竹原)間に軌間1067mmで京都電燈越前電気鉄道線を開業し、年内に勝山、大野口まで延伸した。更に1918年には大野三番(後の阪福大野)に達し、越前電気鉄道線は全通した。この他、同1918年に嵐山電車軌道を合併し、更に1927年には鞍馬電車軌道を設立するなど、京都電燈は電気鉄道事業へ積極的に参入していった。おりしも、滋賀県においては大津から小浜に向けて鉄道を敷設しようという機運が高まっており、京都電燈はこれを電気鉄道として建設することによって広義の鯖街道の往来を活発化して京都経済の発展に寄与し、また将来的には自社が保有する京都と福井の電鉄を結ぶことができるのではないかと考えた。1919年、京都電燈は新浜大津(大津市)―福井県遠敷郡三宅村(現三方上中郡若狭町)間の鉄道敷設免許状を受け、すぐに建設に取り掛かった。この鉄道は貨物輸送も目論んでいたが、将来的に京津電気鉄道に乗り入れて京都に進出する計画であったことから、軌間は1435mmとされた。豊富な資本を背景に、1921年にまず三井寺を起点に近江今津まで開業した後、1925年には新浜大津―三井寺間および近江今津―三宅(現阪福三宅)間を完成させた。新浜大津では京阪電気鉄道京津線浜大津駅と連絡し、京都側の起点三条大橋まで直通運転を行った。京都電燈は、続いて三宅―小浜間および近江今津―敦賀間の免許を受け、特に三宅―小浜間については建設を急いだ。

【参考文献】

Wikipedia 京都電燈

Wikipedia 江若鉄道

Wikipedia えちぜん鉄道勝山永平寺線

■京津電気軌道を巡る京阪電気鉄道との攻防

 一方の京都側では、その少し前の1922年、京津電気軌道が社長奥繁三郎を中心として京阪電気鉄道への合併を目論む動きを見せていた。しかし、役員の中にも京阪への合併に異論を唱える者があり、中には独自に京都電燈への合併を模索する動きもあった。京都電燈も、京都市内への直通経路を自社線にできるまたとない機会として京津電気軌道買収工作を進めたものの、京津電気軌道が未だ浜大津に達していない状況では直通運転はあくまで計画であり、京阪の攻勢を退けるには弱かった。もともと京津電気軌道側のラブコールで始まった合併話は、1925年には京阪電気鉄道側も乗り気になっており、結果両トップの思惑の一致により京津電気軌道は京阪電気鉄道に合併されることとなった。

京都電燈は同1925年の新浜大津延伸および京阪電気鉄道京津線浜大津延伸に合わせて三条大橋まで直通運転を開始し、暫定的に京都市内への乗り入れを実現したが、京津線はカーブが多く、京都大津間で長距離電車らしからぬ長い時間がかかってしまっていた。そこで京都電燈は、1926年、五条大橋―三井寺下(三井寺から改称)間を現在の国道1号、逢坂山トンネル、大津市街地西縁経由で建設する計画を立て、免許を取得した。恐慌により建設が遅れたが、峠越えの区間で東海道本線の旧経路を利用できるなど比較的建設が容易であったため、1935年に竣工し、ここに京都小浜間の電気鉄道が誕生した。

【参考文献】

京都電燈株式會社五十年史

Wikipedia 京津電気軌道

Wikipedia 鴨川_(淀川水系)

■福井県側の動静

 小浜進出を果たした京都電燈は、次に北陸本線への連絡と嶺南の主要港への進出、さらには将来の福井方面への進出を目論み、近江今津から西近江路を通って敦賀までの路線を建設した。一方、江若連絡や京都付近の鉄道に注力していた結果、嶺北の鉄道事業は越前電気鉄道線の開業以降目立った動きは見られなかった。1925年頃、福井から芦原方面の免許を持ちながらなかなか着工できずにいた吉崎電気鉄道が存在したが、当時京都電燈は京津電気軌道を巡る攻防と自社線での京都乗り入れ、さらには敦賀への延伸と多忙であり、吉崎電気鉄道に出資する余裕はなかった。吉崎電気鉄道は資金難にあえぎ、同1925年のうちに一度免許を失効させた。それから10年が経過した頃、改めて京都電燈の路線として福井口―芦原(現芦原湯町)間を軌間1067mmで開業し、次いで東尋坊口まで延伸した。

【参考文献】

Wikipedia えちぜん鉄道三国芦原線

■新京阪の思惑

 京都電燈は京都進出を果たしたが、ターミナルは五条大橋であり、鴨川を挟んで中心市街地の反対側にあった。京都電燈としては、この先の延伸計画として京都市の都心である四条河原町への進出を目指していた。一方京都市に西からアプローチする新京阪線を保有する京阪電気鉄道は、京都電燈が既に逢坂山トンネルを使用していることから大津市へ抜ける路線の免許を取得できず、それでも東を目指すなら京都電燈に接続する他なかった。現在の新京阪線のターミナル京阪京都(大宮)から東に都心を目指す免許は持っていたが、これを活用して京都電燈に接続するのは、祇園と五条坂にクランクを造ることになるため、高速鉄道を計画する京阪電気鉄道としてはありえない選択肢だった。そこで京阪電気鉄道は、新京阪線西京極から分岐して五条通を五条大橋まで直進するルートの免許を取得し、建設を開始した。名古屋急行電鉄構想を持っていた京阪電気鉄道であるが、実のところ当時の財政状況は火の車であり、名古屋急行電鉄の免許は工事施行期限が迫るたびに延長申請を出して時間稼ぎをする有様であった。そんな中、京都市中心部への乗り入れを模索している京都電燈という存在は、京阪電気鉄道としてもまたとない出資者であった。両者の思惑は一致し、京阪電気鉄道と京都電燈との共同事業のようなかたちで工事は実施された。1940年に五条通の地下線は全通し、天神橋・十三―小浜・敦賀間が電気鉄道で繋がった。

【参考文献】

Wikipedia 阪急京都線

■戦時統合と戦後の分裂

 1942年、戦時統制により京都電燈が解散し、電気鉄道事業は新設の京福電気鉄道に譲渡された。翌1943年、戦時統合により、京福電気鉄道、阪神急行電鉄、京阪電気鉄道、福武電気鉄道、鯖浦電気鉄道が合併し、京阪神北陸電気鉄道が成立した。福井県内の2社も併合しているように、京福電気鉄道の福井市延伸計画も反映された統合となった。

太平洋戦争終結後の1949年、京阪神北陸電気鉄道は分社化され、旧阪神急行電鉄は新たに阪神急行電鉄として、旧京阪電気鉄道の新京阪線系統を除く路線が京阪電気鉄道として再出発し、新京阪線系統および旧京福電気鉄道以北の路線は阪福電気鉄道に改称した。分離に至った背景には、京阪神北陸電気鉄道があまりに巨大な組織であったことが挙げられる。このとき、阪神方面の阪神急行電鉄、京阪間の京阪電気鉄道、京都以遠の京福電気鉄道という三大構成主体にすんなりと戻らず、新京阪線系統が京福陣営側帰属となったのには、京阪神北陸電気鉄道社内における思惑の交錯があった。新京阪線は戦前京福電気鉄道と直通運転を行っており、京福陣営としてはせっかく大阪進出を果たしたのにそれをみすみす失うようなことはしたくなかった。一方京阪電気鉄道としても、新京阪線は元々京阪であり京阪神北陸電気鉄道分社後は当然京阪に帰属すべきであると考えていた。このような状況下で、新京阪線系統の帰属先に関する社内の評決は事実上阪神急行陣営が左右することになった。阪神急行陣営内では、一体的に運営されている新京阪線と旧京福電気鉄道線を分離することは現状に鑑み合理性に欠けるとして、新京阪線系統は京福陣営に帰属すべきであるとの意見が優勢であった。結果、新京阪線系統の帰属先に関する評決は、京福陣営全員と阪神急行陣営の大多数が京福陣営に帰属すべしとの見解を示し、多数決で正式に決定した。

【参考文献】

Wikipedia 阪急京都線

■山中トンネルの利用による福井到達

 1962年、国鉄北陸本線の敦賀今庄間に北陸トンネルが開通して経路が変更されたのに伴い、旧経路の山中トンネルが使用されなくなった。阪福電気鉄道は、この山中トンネルを利用して敦賀―西武生(現北府)間の路線を建設し、同時に旧福武電気鉄道区間を1435mmに改軌することによって、悲願の福井市到達を果たした。また、長距離電車の福井市内乗り入れに先立って、路面区間を通ることのないよう豊(福井新から改称)―福井間の連絡線を建設し、福井市中心部の路面区間は廃止とした。このとき特急車両が新造され、天神橋―福井間の特急列車に使用された。

【参考文献】

北陸本線旧線(敦賀・今庄間 鉄道廃線跡)を走る

http://www.sakane.net/japan/hoku_kyu/hoku_kyu.htm

■もう一つの悲願 梅田延伸

 福井延伸とともに、梅田延伸も阪福電気鉄道の悲願であった。天神橋ターミナルは天神橋筋六丁目にあり、地下鉄1号線(現御堂筋線)にも国鉄城東線(現大阪環状線)にも接続しないため、天神橋に着いた乗客は必ず市電かバスに乗り換えて目的地に行かざるを得なかった。高度経済成長期の大阪は想像を絶する道路混雑に見舞われ、市電もバスもほとんど身動きが取れない状態であったため使い物にならず、天神橋は事実上宙に浮いたターミナルと化していた。阪福電気鉄道はこの当時、ただの支線と化していた十三線を利用して優等列車を設定し、阪急に乗り換えさせることで梅田へのルートを確保するなど、苦肉の策を講じる始末であった。そこで1960年代前半、阪福電気鉄道は天神橋ターミナルを地下化した上でそのまま梅田まで延伸する計画を立てた。当時、京阪の淀屋橋延伸や、近鉄の難波延伸が計画されており、大阪市のモンロー主義が軟化していた時期であった。

しかし、この時期は地下鉄堺筋線の建設が計画されており、千里丘陵で開催される万国博覧会に向けて阪福電気鉄道と直通運転する計画であった。大阪市としては、阪福電気鉄道は堺筋線乗り入れで都心直通したことになるので、別に単独で梅田への乗り入れを図る計画には賛同しかねるという姿勢であった。同時に、阪福電気鉄道が計画している梅田乗り入れ計画は、当初天神橋から梅田まで最短距離で行くために都島通を通るルートであり、大阪市が計画する地下鉄2号線(現谷町線)都島延伸計画と被ってしまうことも懸念材料であった。このような理由から、大阪市は初め、阪福電気鉄道の梅田乗り入れは認められないと回答していた。

そこで阪福電気鉄道は、であるならば堺筋線の当社乗り入れは認められないと表明する捨て身の策に出た。堺筋線の阪福電気鉄道乗り入れが認められなければ、万国博覧会に合わせて建設を急いだ意味はなく、また乗り入れを前提として計画された路線なので天神橋―動物園前間がわずか7.0kmしかなく、短小路線として幹線御堂筋線の後塵を拝するであろうことは容易に想像できた。両者我慢比べの状態が続いたが、最終的に大阪市は、阪福電気鉄道への要求を都島通の回避のみに留め、自社線での梅田乗り入れを容認する方向に舵を切った。梅田乗り入れを認められた阪福電気鉄道は早速ルートの再選定にあたり、天神橋から扇町まで南下した後直角に曲がり、曾根崎警察署北側に真東からアプローチするという結論を得た。扇町北側には国鉄天満駅西端に隣接して阪福天満駅を設け、これを現実の中洲川端駅のような二層構造として堺筋線と接続する計画となった。計画が固まった後は、万国博覧会に間に合わせるため急ピッチで建設が進み、1969年、堺筋線開通と同時に阪福電気鉄道梅田―天神橋間が開通した。

このとき、天神橋―淡路間で梅田―京都方面系統と堺筋線―千里線系統とが輻輳するため、本来は天満―淡路間を複々線化するのが望ましかった。しかし、大阪市と揉めていた結果時間が無くなり、とりあえず万国博覧会までに形だけ完成させる方針を採ったため、二層構造にした天満駅から天神橋駅へ向かって両線が合流し、天神橋―淡路間は複線の状態で開業を迎えた。この合流点から淡路までの間は、この後1970年代中頃までに複々線化されるが、万国博覧会開催時は複線のままだったので、阪急からの乗客を十三線から吸い上げるなどして対応した。

なお、阪福電気鉄道が大阪市に対して捨て身の攻勢に出られた背景には、当時阪急しか乗り換え先の当てが無かった十三線に、1964年、新たに地下鉄1号線(現御堂筋線)西中島南方駅が隣接し、ひとまず御堂筋線接続を果たしていたことがあった。

【参考文献】

Wikipedia 大阪市営地下鉄堺筋線

Wikipedia 大阪市営地下鉄谷町線

Wikipedia 西中島南方駅

■千里丘陵のニュータウンと万国博覧会

 大阪都市圏の人口増加に伴う千里丘陵の宅地開発は、阪福電気鉄道にとって一大プロジェクトであった。1962年に現在の佐竹台で入居が開始されてから、ニュータウンは着々と建設が進み、それに合わせて阪福電気鉄道千里山線(現千里線)も延伸を繰り返した。同1962年に千里山―新千里山(現南千里)間、1967年に南千里(新千里山から改称)―北千里間が開業し、阪福電気鉄道は多くの通勤客を大阪市内に運んだ。また、西側では、1967年に阪福電気鉄道の子会社として発足した北大阪急行電鉄が、万国博覧会のアクセス路線として北大阪急行線も建設し、これもニュータウンの足として利用されている。

 万国博覧会に合わせ、千里線にも南千里―北千里間に万国博西口駅が開設され、阪福電気鉄道および北大阪急行はニュータウン輸送と万博輸送という2つの大仕事を一手に引き受けて活況を呈した。北大阪急行線など万博輸送路線については、建設費の償還が懸案事項であったが、万国博覧会が国際博覧会史上初めて黒字を記録するなど想像を上回る成功を収め、開催期間中に償還を終えることができたのは幸いであった。

【参考文献】

Wikipedia 千里ニュータウン

Wikipedia 北大阪急行電鉄

Wikipedia 日本万国博覧会

■福井以北の改軌と観光特急の運転

 京都電燈にルーツを持つ鉄道は、関西側では軌間1435mm、福井側では軌間1067mmと、線路幅が異なっていた。京都電燈系列で最も早く完成した越前本線は、周囲に国鉄しかない状況で敷設されたため、電鉄とはいえ狭軌になるのは必然であったし、福井―武生間のインターアーバンである福武電気鉄道も、最初は鯖江の陸軍歩兵第36連隊の兵員輸送を名目に建設されたものであるから、いくらインターアーバンといっても国鉄と軌間が揃っていた方が都合が良かったのだろう。阪福電気鉄道は、山中トンネルを利用して福井平野進出を果たした際に福井までの旧福武電気鉄道区間は改軌したものの、主に資金上の都合から勝山・永平寺方面及び東尋坊口方面までを改軌することはできなかった。

 ところが、1970年の万国博覧会が史上稀に見る大成功を収めたことによって、アクセス路線の建設費を完全に償還しまさかの黒字を達成したことから、阪福電気鉄道は当初の計画より資金に余裕ができた。阪福電気鉄道はこの勢いを背景に、福井平野進出以来幾度となく夢に見た永平寺、東尋坊口直通の観光特急を運転するべく、福井以北を1435mmに改軌した。これに際し、越前本線末端部の勝山―阪福大野間は改軌の対象区間となることはなく、廃止が決まった。

阪福電気鉄道:歴史/路線/ダイヤ/車両/その他