首都圏

これは架空鉄道です。たとえ実在する団体名がでてきたとしても、関係ありません。

 日本からの飛行機は大体新巨窪空港行きなので、日本人が宮畿に入るときはオレンジの新巨窪空港急行で宮畿西駅に着くのが一般的だと思います。宮畿市、窪也所市がともに人口250万人でちょっと大きすぎるのでまだ全貌を把握しきれていません。現時点でわかっていることをこの下に列挙します。

人國首都圏交通地図 北
人國首都圏交通地図 北
人國首都圏交通地図 南
人國首都圏交通地図 南

●はじめに 愛と塗

漢字表記が長くなることがある人國語では地名の在部(oma p)を愛(omap)、生所/着所/習所(us i)を塗(usi)で表記することが多い。河川名などは短縮しない形で書かれることもある。

例:住所の茅愛(Kiomap)と河川名の茅在部(Kiomap)

●宮畿東駅、大沼

宮畿東駅は王国時代の宮畿旧市街の外縁で、その裏は元遊廓。現在の東駅裏は宮畿随一の性風俗街。宮畿赤十字病院は日帝時代の宮畿駆黴院。大沼にはかつて遊女が身を投げたという伝説が残る。大沼は米軍基地に近くダンキンやKFCが軒を連ねるのも特色。駅の反対側の東駅IC付近はモーテル街。

●宮畿西駅

宮畿西駅は旧市街の反対側の外縁で、かつて未澤に窪也所からの舟が入ってきて市場が立地した。現在柳生澤は西駅前をバイパスする堀割の自動車専用道路。上柳生澤からさらに上の榮上は日帝時代に開かれた高級住宅地で、現在でも富裕層が住むことで知られる。

宮畿西駅の南に広がる大木森の麓は文教地区。宮畿大學は人國最高学府の国立大学で、滋究館大學は王立医学研究所の名前を引き継ぐ私立大学。文教地区に近い西駅裏は学生の飲み屋街で、旧帝時代に始まるカルピス原液一気飲みが宮畿大學名物の罰ゲームとして知られる。

●リシ°タ新都市

宮畿操車場跡地の再開発地域。かなり都心に近いので新三郷のような雰囲気ではなくオフィス、展示場、大病院などが立地している。宮畿東駅を新大阪駅とすれば十三に突然巨大な空き地ができたようなもの。

●倭倉、華倉、東倉

近世宮畿において王宮の裏手が南方商人、王宮の表の北側が北方商人、南側が東方商人の拠点とされ、倉が置かれた場所がそれぞれ倭倉、華倉、東倉である。南方商人の拠点が王宮の表の台地ではなく王宮の裏手の低地になったのは婦在所路が川口から海に出る経路だからとされるが、南北朝時代の最初期に南朝につく者もいた南方商人は北朝の首都宮畿の建設当初発言力が低く低地をあてがわれたとも言われる。

華倉は現在地下鉄3路線が通る利便性からビジネス街として開発されている。東倉には日帝時代に撤去されなかった倉が少し残っており、飲食店や小売店にリノベーションされる事例が見られる。サブカルチャーを中心とする若者の街である。倭倉にも倉が少しは残っていると思われるが、立地が東倉より悪いためか盛んに再利用されているという話は聞いたことがない。

●新華令、新東令

近世以前の人國を支えた北方商人、東方商人が宮畿の一等地辰門大路を日帝に接収されて代わりに与えられた土地。日帝による支配で人國商人の力が削がれた後の街なので、商人の街でありながら大國港以北と異なり水路がない。

●秋川臨塗、北丘臨塗、西門臨塗

臨塗は王宮の見張り台。王宮の西側は台地の端で見晴らしがよく、東側は敷地の角にクランクが設けられていて臨塗から通りを見渡せるようになっていた。東京で言えば赤坂見附、四谷見附、市ヶ谷見附のような地名。

●館守澤、刀洗塗

館守澤は王宮の南の堀に活用されている小川。その上流は2号線と3号線の間の武家地に伸びていて、王宮警備の兵士が刀を手入れしたことから国会議事堂の東の地名が刀洗塗になった。

●宮畿市中心部の地下鉄駅名

宮畿市中心部は縦横の通りに名前がついている。最初に通った路線の駅が交差する通りの名前を名乗るので、王宮の東では1号線の駅が辰門大路、通路路、土壁路、王宮の西では4号線の駅が野江道、束橋道である。

●地下鉄3号線

1988年の冬季オリンピックの際に空港連絡鉄道として建設されたのが始まり。市内電車ではなく空港連絡鉄道として始まったので並走する11号線と比べると少し駅間距離が長め。

●レ

地下鉄の廃トンネルを活用した地下街。床に線路の模様があしらわれている。地下鉄5号線はオリンピック開催時暫定的に壁中令~オリ競技場で開業し、後に通路丘より西が6号線として分離されたため、通路丘駅の西側に廃トンネルができた。

●公団住宅 直往澤、𣹌川、下嵒

1980年代初頭に宮畿市への人口流入が激しくなった際に建設された。直往澤住宅には都心の建設ラッシュの作業員、𣹌川住宅にはオリンピック競技場や大木森隧道の建設作業員、下嵒住宅には鉄道作業員が主に住んだ。

●赤壁、戊辰門

近世宮畿において街の端が川で区切られていなかった大木森のあたりには一帯の粘土質の土を利用した赤壁が立てられており、その一部が今も大木森公園の北の端に残っている。戊辰門は赤壁に設置された門で、陸路の方の戊辰路の出入口であった。舟運の方の戊辰路は巨窪川である。

●高速ハ營業所

宮畿東自動車驛や窪也所自動車驛に入らない格安高速バスが発着する駐車場。国鉄の分岐の内側で他に使い道のない三角形の土地にある。日本でいう鍛冶橋駐車場、池袋西口公園、プラザモータープールのような場所で、日付が変わる頃に大学生がわらわらと集まってきてホット飲料で手を温めながらバスを待つ。

●渴大邑、渴大口、新渴大口、渴大區

渴大川は豊平川にあたる川の名前で、流路が主に二度変わっているのであちこちに「渴大」がつく地名がある。渴大川の旧旧流路にあった村が渴大邑である。旧流路は近世宮畿の新港における主要水路として活用され、丹龍江との合流部には渴大口の地名が残る。日帝時代に作られた放水路が現流路で、丹龍江との合流部は渴大口に対して新渴大口と呼ばれる。新港の方ではなく放水路の方が宮畿市渴大區であるのは、日本の荒川と荒川区ではなく淀川と淀川区の関係である。

●光群館

近世宮畿の舟運の目印として松明が掲げられた灯台。当時の丹龍江は龍腹を囲むようにぐるっと回っており、宮畿入城最後のカーブに立つ光群館が見えると船乗りは宮畿到着を実感したとされる。

●石津

丹龍江沿いの地名「石集所(Potoi)」が長いので日帝が「石」の部分だけ取って「石津(いしづ)」としたものが戦後も残った地名。現在では丹龍江沿いの古い集落の方を石集所(Potoi)、後背湿地を開拓した農地とそれを転用した新市街地を石津(Cekcen)と呼んでいる。